HOME

((緑区の真ん中を流れる2級河川、扇川のお話をすこし))

2018年10月後半、

浅間橋上流エリアにハゼが戻って来ているようですが、今年は釣り人の姿はあまり見ないです。

釣れないのかなー?

 

2015年6月某日、扇川中島橋下流にて、黒鯛50センチ釣られた方がありました。
ルアー釣り、ルアーはホッパーだそうです。
以前からかおうぎがわでかくにんはされていたのですが・・・

河川改修もほぼ終わり、護岸が馴染めば、又、多くの生き物が住む川になって行きます。
2014年、今年はハゼが少ない様ですが、来年は何時もの場所でハゼ釣りが出来るのでは、

最近皆さんが扇川で見かけたちょっと珍しい生き物

エイ・黒鯛・セイゴ・カマキリ魚・シジミ・ヌートリア・

 


 

2004年4月25日日曜(2012年5月修正) 

(扇川に架かる橋の名前を下流より順に書きました。45カ所でした(新たに橋が3カ所増えました)

大星橋⇒⇒汐見橋⇒⇒汐田橋 (中汐田交差点北)⇒⇒上汐田橋(人道橋) ⇒⇒鳴海橋(大浜街道)⇒⇒ 浅間橋(鳴海駅北)⇒⇒本川橋(人道橋)⇒⇒相生橋(旧東海道曲手南)⇒⇒相川橋(人道橋)⇒⇒ 中島橋(ここの下流で手越川と扇川が分れます)⇒⇒ 下焼田橋⇒⇒焼田橋(緑郵便局南) ⇒⇒七双子人道橋(人道橋)⇒⇒若田橋⇒⇒有原橋⇒⇒鳥澄人道橋⇒⇒砂田橋 ⇒⇒おうぎがわほどうきょう⇒⇒302号線橋⇒⇒おうぎがわほどうきょう⇒⇒砂田橋(ドンキホーテ鳴海店横)⇒⇒砂田人道橋(人道橋)⇒⇒ 新鴻仏目橋 (バロー横)⇒⇒篭山橋 ⇒⇒大清水橋⇒⇒平手4号橋⇒⇒平手3号橋⇒⇒平手2号橋⇒⇒平手橋(平手交差点東)⇒⇒ 横吹橋 ⇒⇒乗鞍橋⇒⇒通曲橋⇒⇒扇橋 (扇台中学西)⇒⇒すえひろ橋 ⇒⇒新徳重橋(徳重交差点東)⇒⇒鶴ヶ沢橋⇒⇒ 高砂橋⇒⇒亀ヶ洞橋⇒⇒ 鶴亀橋 ⇒⇒熊の前橋⇒⇒ 熊亀橋⇒⇒兵庫人道橋(人道橋) ⇒⇒兵庫橋⇒⇒ 藤塚橋 ⇒⇒大池橋 (大池横)


 

扇川のプロフィールと歴史

古代より、人が住みついていた鳴海、奈良時代より、奈留美・成海そして今の鳴海と変名しています。
扇川も 黒末川・扇子川・今の扇川と名お変え今に至っています。
古代といわれるころ、扇川の下・中流域は「あゆち潟、後に鳴海潟」と言われる、大きな干潟であり、満ち潮時現在の鳴海円龍寺辺りより大高方面見渡せば、 宮城県の松島の様な景色の良い所であったと言われています。後に、若干の地面の隆起と稲作を目的とする堤防の設置で 現在の中・下流域が形成されました。
神の倉を源流とする、延長11.5キロメートル、流域面積31.4平方キロメートルが現在の扇川です。

江戸時代物流の拠点であった鳴海扇川、東海道の通過点であった当時の鳴海宿、宮宿までの数キロ、 この数キロが大変で今なら車でほんの20分 、しかし、あの頃は人は徒歩で、物は馬・大八車で運んでいたので、少しでも近くて、楽に多くの人・物を運べるほうが良いのは当たり前です。

ここで、扇川の登場です!、桑名宿から宮まで海上七里(28キロ)なぜか桑名宿から鳴海宿荷揚げ所,通称「土場」までも同じ海上七里です。この事が鳴海の発展に大きく 影響を与えました。桑名だけでなく海上十里(四十キロメートル)の四日市便も有り, 更に知多方面への物流も盛んで「土場」からお伊勢参りの話も実際に出かけた方かにお聞きしました。


とある資料の一節より、
「江戸時代には下十貫目(現鳴海場橋下辺り)通称土場付近に船着き場ができ、郷倉が建てられ、遠出の旅人や陶器その他の荷物も ここから積み出され、伊勢、知多方面の海運の拠点となった。」記されており,鳴海の物流に携わり多くの人が集まり繁栄していったことが解る。
「もっとも繁栄を見せた、大正時代、昭和初期には扇川下流域の土場の水門で水をせき止め、屋形船を浮かべ三味線太鼓を奏で芸子を招き、優雅な船遊びが盛んに行われた。」 とも聞いています。

私の子供の頃、学校が終ると宿題もせず、ゴム草履を履き浅間橋の辺りより川に入り、四つ手網とバケツを持ち、日が暮れるまで扇川で魚取りをして遊んだ事が、今も懐かしい思い出です。

現在の扇川は昭和48年頃に行われた、河川改修によって川の形はさま変わりしましたが、今も緑区の真ん中をゆったり流れ、少なく残る自然を堤防遊歩道を散歩する人々が楽しんでいます。
河川法の改正により「治水だけでない河川環境をも考えた河川管理」に法が改められました。子供達の思い出作りの場所が又復活すると良いですね。

 HOME